energy labo
活動から得た街への視点
green birdの活動
区議会委員こそ街のプロデューサ(1)
区議会委員こそ街のプロデューサ(2)
2008年度3期
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

はじめまして、長谷部健です。まず最初に、簡単に自己紹介をさせて頂きます。「街のプロデューサー」ってイイなぁと思い立ち、勤めていた広告会社を30歳の時に辞め、街の美化活動に関するプロジェクト(NPO法人green bird)を立ち上げました。その後、渋谷区議会議員に立候補し、現在2期目を迎えていています。環境に関するプロジェクトの企画などもしている、原宿生まれ原宿育ちの36歳です。こんな僕が、「街ゼミで文章を!」と仰せつかり、はなはだ恐縮ですが、僕なりに思う街づくりについて書いてみようと思います。どうぞヨロシクお願いします!

僕が「街」に興味を持ちだしたのは、小学校時代からの幼なじみやその親たちが、地元の商店会の中心メンバーとして活躍していることがキッカケでした。その商店会とは、正式名称だとちょっと長いのですが「商店振興組合原宿表参道欅会」(一般的には欅会)です。地元で生まれ育った僕も、表参道にも商店会があるんだとビックリしたくらいでした。地元民でありながら商店会活動については、恥ずかしながらあまり意識していなかったという感じです。イルミネーションや原宿元氣祭り「スーパーよさこい」などの大きなイベントを主催していることもその時に知りました。当時、広告代理店に勤務していたこともあり、情報発信はTV、ラジオ、新聞、雑誌の4媒体にばかり目を向けていた僕にとっては、地元の街の持つメディア力にはまさに“灯台もと暗し”という感じ。広告を通じて、社会に強いメッセージを発信したいと考えていた僕にとっては、非常に魅力的でチャレンジしがいのあるメディアでした。ましてや地元というアドバンテージもあるし、そのネットーワークは強力な武器だし、他の人じゃできないことができるのではと。この街でメッセージを発信できれば、この街をプロデュースする一員になれれば、大きな社会貢献も実現できるのではと。仲間達に担がれたということがキッカケではあるけど、段々とその気持ちが強くなり、街のプロデューサーとして区議会議員のシゴトを意識するようになりました。

まずは、自分の生まれ育った街について知ってみようと、街の歴史を調べること、そして商店会の活動に参加することからはじめました。歴史をさかのぼると、僕の知らなかった街の成り立ちとその発展の過程が見えてきたんです。考えてみれば当然と言えば当然なのですが、表参道は明治神宮の参道というのがことの始まり。(僕の子どもの頃には、すでにファッションの街となっていたので、参道という意識はなかったというのが正直なところでしたが…。)1920年に明治神宮が創建されると同時にその参道として開通し門前町として発展が始まりました。当時の写真をみるとダーンと広くスケール感のある、いわゆる参道の風景。余談ですが、緊急時に出動するセスナ機の滑走路だったこともあるそうです。それだけ、ガランとした大きな通りだったと想像できます。その後、1回目の変化を見せはじめるのが同潤会青山アパートの出現です。1923年の関東大震災後につくられた集団集合住宅で、高級官史や文化人達が入居し、山の手の新しいタイプの住宅ということで人気を集めたようです。その後、約80年間、街の顔としてその存在感を増していきます。

次は、第2次世界大戦後が2回目の大きな変化のタイミング。1945年に今のオリンピック競技場と代々木公園界隈にGHQの将校のための住居施設「ワシントンハイツ」ができたことです。街にはビュイックやシボレーに乗ったアメリカ人が集まり、戦後の復興を背景にしながら、いわゆる舶来品などが流通するハイカラな街へと変化していきました。実際、表参道には、将校やその家族をターゲットとしたビジネスが始まりました。キディランドやオリエンタルバザーなどの海外のおもちゃや東洋の陶磁器・家具などをあつかう店もこのころがはじまりです。この時期に急速にアメリカの文化がググッと現れてきたんだと思います。

その次は、東京オリンピック。1964年にワシントンハイツは選手村として開放され、ますます海外文化のエキスが街に注入されだしました。原宿族と呼ばれるちょっとスノッブな若者達が登場したのもこの頃です。海外文化の香りがするこの街は、当時の若者にとって先端と感じられたんだと思います。この時期からは、ファッションの街としての顔がドンドンと出始めました。1978年のラフォーレ原宿の出現にはじまり、竹の子族やロカビリー族、セントラルアパートには当時の人気クリエーターたちが集まってきました。

<表参道の歴史(2)へつづく>